2016年11月3日木曜日




日本の教員の労働時間は世界最長

日本の教員の労働時間は世界最長です。OECD(経済協力開発機構)による2013年の調査では、中学校にあたる学校の勤務時間が、OECD加盟国平均が週38.3時間だったのに対し、日本では53.9時間でした。これは世界最長です。民間においても、仕事と生活との調和(ワーク・ライフ・バランス)のための環境整備として、残業時間の縮減が求められています。最近では、電通の長時間労働、パワーハラスメント問題が話題になりました。平成18年の「教員勤務実態調査」の結果によると、教員の残業時間は、昭和41年度は、月平均およそ8時間だったのに対し、平成18年度は、およそ42時間と、5倍以上に増えています。教員の残業時間が大幅に増加している状況があります。背景には、特別な支援が求められる生徒や外国人生徒の増加。不登校やいじめ、虐待への対応など、以前と比べ、学校現場が抱える課題が多様化していることがあげられます。しかし、学校が抱える課題に対応するための、適正な教職員数は、全く足りていません。少人数学級の実現も必要です。現に財務省は教員数を更に減らすことを要求しています。文部科学省のパンフレット『教員をめざそう!』には教員の一日の例として、朝8時の登校指導に始まり、15時半に下校指導をして仕事が終わるかのようなモデルケースが掲載されています。調査の結果において、時間外に「授業準備」や「成績処理」など、通常必要な業務がなされていることが判明しており、通常の業務の処理が勤務時間内だけでは間に合わず、恒常的に時間外に及んでいます。また、職員会議・打合せ」、「事務・報告書作成」などの、学校運営上の必要性からなされる業務が行われている実態があります。通常の学校の業務は勤務時間内で処理できるようにし、時間外における勤務は、学校として臨時に必要となる業務の処理のために限られるようにすることが必要です。公立学校の教員に時間外勤務を命じることができる場合は、実習や学校行事、職員会議、非常災害などに必要な業務(いわゆる超勤4項目)に従事する場合であって臨時または緊急のやむを得ない必要があるときに限るものとされています。現在の教職調整額の給料のパーセントという支給率は、昭和41年に行われた「教職員の勤務状況調査」から判明した残業時間の長さを基にして、勤務時間の内外に渡る職務を包括的に評価するものとして定められ、現在に至るまで支給率の見直しはされていません。 

部活の課題

「教員勤務実態調査」の結果によれば授業の準備などの時間は世界と変わりませんが、部活動や事務作業の時間が労働時間を長くしていることが分かっています。中でも部活動など課外活動の指導は7・7時間でした。部活に関して、教員はあくまでも「自主的に指導している」という建前となっています。つまり正規の労働ではなく、ボランティアという扱いです。しかし、現場では当然「教員は部活の顧問をして当たり前」という認識がされ、ほぼ強制的に部活の顧問を押し付けられている現状があります。部活動の顧問の負担は以前から問題となっており、文科省は1997年度に中学の運動部は週2日以上の休養日を設定するとの指針を策定しています。今年3月、部活動の顧問を務める中学や高校の教員が、休日返上で働いている現状を変えようと、若手教員らが2万3522人分の署名を集めました。代表が文部科学省を訪れ、署名と、教員が顧問をするかどうかを選べるようにすることを求める要望書を提出しました。顧問をする意思があるかを教員に毎年確認するよう文科省が各教育委員会に指示することや、「部活動指導員」を十分に確保することなどを求めました。部活に時間をとられ、学校現場が抱える課題への対応、不登校の子に会いにいく、保護者と面談をするなど、個別に生徒の対応することが難しくなっています。中学校では30歳以下の教員は、30歳以上の教員に比べて、勤務日と休日いずれにおいても、残業や持ち帰り仕事の時間量が多いことも調査結果から分かっています。また、運動部を担当する教員は、文化部顧問や顧問なしの教員に比べて、残業や持ち帰り仕事の時間量が多いことも分かっています。総じて、若手の運動部顧問が中学校のなかでもっとも多忙であると言えます。教員の多忙を改善するためには、まずは若手教員、なかでも運動部顧問の負担を軽減させることが最優先です。特に、平成18年の調査結果によれば、中学校の教諭が「部活動指導に従事する時間」は、勤務日の場合は最も多くの時間が費やされている「授業」に次いで多く、また、週休日の場合は最も多くの時間が費やされており、勤務負担の増大の大きな要因となっています。週休日の振替が行われず、週休日に部活動指導に従事する場合は、さらにその勤務負担は大きくなります。中学校などの教諭の勤務時間を縮減し、勤務負担を軽減するためには、部活動指導の在り方について見直していくことが不可避です。

管理職は勤務時間を把握する義務があります

公立学校の教員も含め地方公務員には労働基準法が適用されており、労働基準法上は、使用者は勤務時間を適正に把握する責務があります。そのため、学校においても管理職が適切に教職員の勤務時間を把握する必要があります。校長や副校長は、教職員の勤務時間外における業務やその時間数を適正に把握し、管理する責務を有しています。また、公立学校の教員を含む地方公務員には、労働基準法第32条などの労働時間に係る規制が適用されています。さらに、労働時間の適正な把握については、平成13年に厚生労働省が、使用者に労働者の労働時間を適正に把握する責務があることを改めて明確にし、労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置を示した「労働時間の適切な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準」を策定しています。これは公立学校にも適用されるものであり、この中で、始業、終業時刻を確認し記録することなどが示されています。働安全衛生法では、平成18年に長時間労働者への医師による面接指導の実施が職員数50人以上の事業場(学校も含む)について義務づけられ、平成20月からは全ての事業場に義務づけられています。これを実施する上でも労働時間の適正な把握が求められます。そして、地方公共団体も同様に当該地方公共団体の地方公務員について安全配慮義務を負っています。公立学校の教員についても、適切な勤務時間管理が必要となっていることを、教育委員会などは周知徹底する必要があります。教職調整額制度の下では、実態として教員の勤務時間管理を行う必要に迫られることが少ないため、適切な学校の組織運営という観点から、適切に勤務時間管理を行う動機付けが働くような制度に見直していく必要があります

2016年10月9日日曜日

教員の労働に関する権利について


   教員の給与はどのように決まるのですか?

10月頃に行う、議会と知事に対する、給与勧告の結果で決まります。職員の給与は、民間給与との均衡が図られるよう措置されています。そのため、人事委員会では、毎年、職員の給与水準と民間の給与水準の間の較差を算出するための調査を実施し、給与勧告を行っています。毎年5月から6月にかけて民間事業所の従業員の給与等を調査し、職員の給与と比較して10月頃に議会と知事に対し、勧告を行います。人事委員会は、知事から独立した、行政委員会のひとつであり、中立性、公平性を有する人事行政の専門機関です。 

 

    公務員に労働基本権が制限されていますが?

 

労働基本権(団結権・団体交渉権・争議権)はいずれも憲法28条で保障されています。

労働者が使用者と対等な立場で労働契約を結ぶため、労働組合をつくる権利が「団結権」。労働組合が使用者と改善交渉する権利が「団体交渉権」。公平な団体交渉を行うため、ストライキなどの争議を行う権利が「団体行動権」(争議権)です。労働基本権に基づき、労働組合法や労働関係調整法で、具体的な労使間のルールが定められます。

公務員の争議権の問題があります。公務員には、ストライキの権利が認められていません。(フランスやイギリスなどの外国では、教師や消防団員などの公務員がストライキをしていたりするようです。)公務員は一五条で「全体の奉仕者」とうたわれており、社会機能が停止するとして争議権(ストライキ等)は認められていません。その代替措置として、人事院勧告があります。現政府は「現行憲法下でも、人事院勧告などの代償措置を条件に、公務員の労働基本権は制限されている」と説明しています。しかし実際は、「給与制度の総合的見直し」の強行や、大阪・泉佐野市や神奈川・鎌倉市の当局による一方的な賃金削減にみられるような「(人事院)勧告制度が労働基本権制約の代償措置として機能していない」現実もあります。ILO(国際労働機関)は、日本政府に対し、日本の公務員労働者に労働基本権の付与を求める通算10度以上の度重なる勧告を採択しています。ストライキとは、労働者によって結成された労働組合が「働く事を拒否する」事によって雇用者と交渉を進めることです。賃金、すべての人が働きやすく、働きがいのある仕事や職場環境を使用者と対等に交渉するために認められている権利です。教員は、膨大な仕事量による長時間・過密労働により、勤務時間内で仕事を終えることさえ困難な状況です。休日、勤務時間外の労働があって成り立っている業務があり、時間外の労働を拒否するだけで学校の機能が停止する状況です。こういった問題の解決に向けて、労働組合は使用者と対等な立場で労働交渉する大切な役割を果たしています。

2016年8月31日水曜日

原水爆禁止世界大会を振り返って



今回、原水爆禁止世界大会に初参加をした。私は以前、観光で訪れたことが何度かあったが、今回訪れた広島はそれまでとは違った雰囲気であった。各団体の腕章や帽子やのぼり旗を持っている人が多数いた。原爆ドーム前で法要をする僧侶も見かけた。平和と核兵器廃絶を願い、全国や世界から集まった人々の想いがとても伝わった。

開会式では代表の方が、自分の立場や考えなどについて述べていた。「非人道的な核兵器は二度と使用させない」「被爆者を作ってはいけない」「核兵器のない、平和な世界へ向けて行動しよう」といった内容であった。

5日は動く分科会に参加し、遺跡巡りをした。熱線や放射線・爆風で傷ついた多数の被爆者たちが水を求めてこの川まできて亡くなった元安川には、橋が数本あり、昔のまま残っている橋を通った。後に見た原爆投下前と後の写真でも原爆ドームとともにその橋が確認できた。ここ場所がまさに悲劇の起きた爆心地であることを実感した。

爆心地に最も近い本川小学校へ行った。当時の市内には2つの鉄筋校舎あり、この学校はそのうちのひとつで地下室がある。今は川に近い端のみが残され、資料館になっている。地域と協力して作り上げた、記念碑、被爆者の遺品などが展示されており、当時の恐ろしい惨事に直接触れた。

広島のすべての小学校では原爆の日の8月6日頃に登校日があり、学校で平和学習を行っていることを知った。暑い体育館で真剣に戦争の話をきいている小学生を見た。しっかりと体育座りをして真剣な表情で平和学習をしていた。東京では見たことがない光景だが、70年の月日の間、人々が平和について学び伝えてきた想いを感じた。平和記念公園周辺の地下には今でも犠牲者の人骨や遺品が多数地下にあることを聞いて驚いた。当時200名の生徒が校内にいて大半が犠牲になり、教師も犠牲になった。裸足のゲンの作者も通っていたそうだ。追悼盆踊りの横断幕があり、地手作りの市内の模型もある。焼け焦げた建物の跡も多数あった。

広島城へ移動した。毛利元就の孫が築城。秀吉に朝鮮出兵を命じられた軍事的に歴史ある場所と知った。その後も、鉄道と航路の最西部であったため軍事拠点になる。畑は兵隊に酒一升瓶で買いとられ鉄道が作られ、明治には大本営がおかれるほどの軍事都市として栄えた。これが原子爆弾の標的として狙われたことの要因の一つではないかと話を聞いた。アメリカ兵の捕虜が捕らえられていた場所にはコンクリートの地面があるだけで、今は何もない。地下通信室があり、14歳の女子学生が電話で福山に原爆第一報を伝えた。

実際に自分の目で見て話を聞き、追体験することで核兵器の恐ろしさと今日の平和の尊さを身にしみて感じた。こういった学習会に参加することが、平和へのまず第一歩であると確信した。広島は、平和都市として復興し、今では活気ある街になっているが、広範囲に被害が及び、語り継がれている部分は本当に一握りの部分である。何も言えずに自分、家族、友人、家も失ってしまった人がどれだけ沢山いたかということを考えされられた。国連の調査には、13~15万人の犠牲者が1945年内だけでいたという回答をしたが、原爆投下後に被爆地に入り、被爆して、長い間苦しい生活を送ってきた人たちを合わせると、どれだけ多くの人が犠牲になったのだろうかと思った。

広島へ行くと原爆の恐ろしさを伝える遺跡や被爆者の証言に触れることができる。しかし、人は苦しい体験を語るにはかなりの時間が必要で、できれば思い出したくないことでもあると知った。私がお話を伺った、ある被爆者の女性は、父親は船乗りで、母親は繊維関係の仕事に従事させられていた状況であったそうだ。疎開先では、毛じらみがわき、体にウジがついていたらしい。食べるものも満足にはなく、大変な生活をしていたそうだ。原爆投下の後両親が迎えに来てくれたが、父親の顔は原爆の急性障害になっていて、とても驚いたそうだ。その後も父親は、寝て苦しみながら生活をしていた。母親も一生懸命働いて生活を支えてくれた。自分自身も、家計のために一生懸命働き、定年退職まで働いたそうだ。退職後、満足に学生時代に学べなかったことを理由に、60歳を超えて高等学校へ入学した。さらに大学へ入学し、卒業をした。今も語り部をしてくれている。

今の子供たちは、たくさんの情報があり、表現が規制されていない、自由な世界に暮している。たくさん学び、自分の意見を言える人になってほしい。そして、平和な世界を実現するためにはどうすればいいのか、皆で考えてほしいとのことであった。苦しい実体験を語り、後世に伝えてくださったことに感謝し、また次の世代へ語り継ぎ、原子爆弾の残虐さ、戦争の恐ろしさを伝えていく責任があると感じた。

 6日は前日、平和記念公園リハーサルをしていた、式典が行われていた様子をテレビで見た。こんなにも、身近に感じながら式典を見たことはなかった。

 大会の閉会式では、国連の代表の方、被爆者、被爆者2世、3世、各地域の代表の方たちの話を聞いた。福島の原発事故の被害者も十分に保障されておらずとても不安な生活をしていることも伝えられた。被爆者全員の平和への祈りを感じ取ることができた。人類は祈りを実現するため、核兵器を廃絶するための行動をとる勇気を持たなければならない。そのように感じた。

 東京へ戻り、図書室や資料館などを見渡すと、あちらこちらに戦争を記録した文書や写真を見ることができた。戦争は人と人の殺し合いであり、本当に悪である。戦争がなくなれば、核兵器だけでなく、人を殺すために作られた武器全般がなくなり、人々が平和に安心して世界のどこでも暮らせるようになると思う。日本が世界平和に向けてリーダーシップを発揮し、二度と過ちを繰り返さないようしっかりと記憶を胸に刻んで発信していくべきだと思った。そのことをしっかり子供たちに伝えていくことが教師の使命だと感じた。