2016年8月31日水曜日

原水爆禁止世界大会を振り返って



今回、原水爆禁止世界大会に初参加をした。私は以前、観光で訪れたことが何度かあったが、今回訪れた広島はそれまでとは違った雰囲気であった。各団体の腕章や帽子やのぼり旗を持っている人が多数いた。原爆ドーム前で法要をする僧侶も見かけた。平和と核兵器廃絶を願い、全国や世界から集まった人々の想いがとても伝わった。

開会式では代表の方が、自分の立場や考えなどについて述べていた。「非人道的な核兵器は二度と使用させない」「被爆者を作ってはいけない」「核兵器のない、平和な世界へ向けて行動しよう」といった内容であった。

5日は動く分科会に参加し、遺跡巡りをした。熱線や放射線・爆風で傷ついた多数の被爆者たちが水を求めてこの川まできて亡くなった元安川には、橋が数本あり、昔のまま残っている橋を通った。後に見た原爆投下前と後の写真でも原爆ドームとともにその橋が確認できた。ここ場所がまさに悲劇の起きた爆心地であることを実感した。

爆心地に最も近い本川小学校へ行った。当時の市内には2つの鉄筋校舎あり、この学校はそのうちのひとつで地下室がある。今は川に近い端のみが残され、資料館になっている。地域と協力して作り上げた、記念碑、被爆者の遺品などが展示されており、当時の恐ろしい惨事に直接触れた。

広島のすべての小学校では原爆の日の8月6日頃に登校日があり、学校で平和学習を行っていることを知った。暑い体育館で真剣に戦争の話をきいている小学生を見た。しっかりと体育座りをして真剣な表情で平和学習をしていた。東京では見たことがない光景だが、70年の月日の間、人々が平和について学び伝えてきた想いを感じた。平和記念公園周辺の地下には今でも犠牲者の人骨や遺品が多数地下にあることを聞いて驚いた。当時200名の生徒が校内にいて大半が犠牲になり、教師も犠牲になった。裸足のゲンの作者も通っていたそうだ。追悼盆踊りの横断幕があり、地手作りの市内の模型もある。焼け焦げた建物の跡も多数あった。

広島城へ移動した。毛利元就の孫が築城。秀吉に朝鮮出兵を命じられた軍事的に歴史ある場所と知った。その後も、鉄道と航路の最西部であったため軍事拠点になる。畑は兵隊に酒一升瓶で買いとられ鉄道が作られ、明治には大本営がおかれるほどの軍事都市として栄えた。これが原子爆弾の標的として狙われたことの要因の一つではないかと話を聞いた。アメリカ兵の捕虜が捕らえられていた場所にはコンクリートの地面があるだけで、今は何もない。地下通信室があり、14歳の女子学生が電話で福山に原爆第一報を伝えた。

実際に自分の目で見て話を聞き、追体験することで核兵器の恐ろしさと今日の平和の尊さを身にしみて感じた。こういった学習会に参加することが、平和へのまず第一歩であると確信した。広島は、平和都市として復興し、今では活気ある街になっているが、広範囲に被害が及び、語り継がれている部分は本当に一握りの部分である。何も言えずに自分、家族、友人、家も失ってしまった人がどれだけ沢山いたかということを考えされられた。国連の調査には、13~15万人の犠牲者が1945年内だけでいたという回答をしたが、原爆投下後に被爆地に入り、被爆して、長い間苦しい生活を送ってきた人たちを合わせると、どれだけ多くの人が犠牲になったのだろうかと思った。

広島へ行くと原爆の恐ろしさを伝える遺跡や被爆者の証言に触れることができる。しかし、人は苦しい体験を語るにはかなりの時間が必要で、できれば思い出したくないことでもあると知った。私がお話を伺った、ある被爆者の女性は、父親は船乗りで、母親は繊維関係の仕事に従事させられていた状況であったそうだ。疎開先では、毛じらみがわき、体にウジがついていたらしい。食べるものも満足にはなく、大変な生活をしていたそうだ。原爆投下の後両親が迎えに来てくれたが、父親の顔は原爆の急性障害になっていて、とても驚いたそうだ。その後も父親は、寝て苦しみながら生活をしていた。母親も一生懸命働いて生活を支えてくれた。自分自身も、家計のために一生懸命働き、定年退職まで働いたそうだ。退職後、満足に学生時代に学べなかったことを理由に、60歳を超えて高等学校へ入学した。さらに大学へ入学し、卒業をした。今も語り部をしてくれている。

今の子供たちは、たくさんの情報があり、表現が規制されていない、自由な世界に暮している。たくさん学び、自分の意見を言える人になってほしい。そして、平和な世界を実現するためにはどうすればいいのか、皆で考えてほしいとのことであった。苦しい実体験を語り、後世に伝えてくださったことに感謝し、また次の世代へ語り継ぎ、原子爆弾の残虐さ、戦争の恐ろしさを伝えていく責任があると感じた。

 6日は前日、平和記念公園リハーサルをしていた、式典が行われていた様子をテレビで見た。こんなにも、身近に感じながら式典を見たことはなかった。

 大会の閉会式では、国連の代表の方、被爆者、被爆者2世、3世、各地域の代表の方たちの話を聞いた。福島の原発事故の被害者も十分に保障されておらずとても不安な生活をしていることも伝えられた。被爆者全員の平和への祈りを感じ取ることができた。人類は祈りを実現するため、核兵器を廃絶するための行動をとる勇気を持たなければならない。そのように感じた。

 東京へ戻り、図書室や資料館などを見渡すと、あちらこちらに戦争を記録した文書や写真を見ることができた。戦争は人と人の殺し合いであり、本当に悪である。戦争がなくなれば、核兵器だけでなく、人を殺すために作られた武器全般がなくなり、人々が平和に安心して世界のどこでも暮らせるようになると思う。日本が世界平和に向けてリーダーシップを発揮し、二度と過ちを繰り返さないようしっかりと記憶を胸に刻んで発信していくべきだと思った。そのことをしっかり子供たちに伝えていくことが教師の使命だと感じた。