2015年11月19日木曜日

こだわりの強い教員

 教員は何を一番追及しようとしているのだとうか?

それは、こだわりではないかと思う。自分はこれが正しい!すばらしい!こうしたい、こうでなければならない!といったものがとても多い業界なのではないかと思う。

 公立学校はIT化されたとはいえ、まだまだ、紙媒体の事務作業がほとんどである。コンピューターを使うこともあるが、結局は印刷され、紙媒体として保存される。

 紙媒体を使うにあたって、紙の責任者として押印を求められることがある。最近では、入試の願書や、調査書に些細な間違いがあっただけで、所定の印鑑でなければ訂正ができないという進学校側の主張で、1時間半かけて教員が、再度物をとりにいって、学校に帰って、また、持って行くということがあった。

 しかも、それほどたいした見本があるわけではなく、見にくいうえに、文章の読み手には理解しがたいところがある。

 授業に関してもそうである。例えば、行事で、いすといすの間隔をこれくらいにしなければならないとか、前に習えとか、喋るなとか、お決まりのパターンである。

 学校は授業を受けて、勉強をするところ。公立学校は、その国の発展度合いに応じて基礎・基本的なことを学ぶ機会をあたえられることだと思う。

 授業は自分だけのものなので、どのようにしてもその教員の自由であるが、それ以外はそうはいかない。

 前の学校では、これは良かったのに、こっちはだめ、去年はこうやってたけれど今年はこうやってやるなど色々な意見が対立する。

 結局、こだわりを追求したり争ったりすることが大変だから、何も口を出さずに去年のままでいこうということで、いまだに紙媒体の何十年も前からやってきたやり方にこだわってしまっている。

こだわりが生み出す弊害は、こども、納税者にふりそそぐ。郵便を使えば、簡単に、安価に済むものをわざと人が自転車や電車で運んで直接届けたりすることがある。

分かりきっていることをわざと、形式にこだわって続け、意味の無い仕事、効率の悪い仕事をしている。

こんなことをしているから、日本税金がうまく使われない。少ない教育予算が、効率的に使われてないということにとても国益を損ねているのではないかと考えざるを得ない。



2015年10月26日月曜日

教育に関わる仕事

 教育に関わる仕事といえば様々なものがある。一般的に教育者は教師とか先生とか呼ばれるのだと思うが、英会話スクールの講師、スポーツなどのインストラクター、大学の教授など教育に関わる仕事は本当にたくさんある。

 教育に関わる仕事で安定した給与をもらって生活をしようと思うと、まず公立学校の教員が思いつくだろう。小・中・高等学校の教員である。

 保育園、幼稚園の教員もかなりの数があるだろうが私立の施設が多く、公立は地域に寄るだろうが比較的少数なのだと考えられる。

 ここで問題にしたいのが、非常勤講師という立場の人である。来年の仕事があるかわからない、1年契約の講師である。

 非常勤講師は、授業単価が2000~3000円程度であると聞いている。生徒が少人数学級であるが30人いるならば、一人当たりは100円の授業である。

 非常勤講師の、生活は苦しいと聞く。本業が他にあり、時間があるので経験も含めやっている場合は別であろうが、これだけで生活を成り立たせるのはとても大変なことであろうと推察する。

 非常勤講師は、市場に求人が出てきにくいのではないかと思う。特に公立の場合は、クラスの数が決定するまで2,3月の直前まで時間がかかることがある。

 理由は私立の高等学校を受験して合否が出るためである。クラスの数が変わると校内の授業数も変わり、必要とされる教員の数が変化するからである。

 予備校講師の場合はどうであろうか?予備校講師は、実力主義の世界であるときく。アンケートや、講習を受講する生徒の数で給与が決まったり、次の時期から仕事が無くなったりすることがあるのだ。

 少子高齢化社会において、1家族に対する子供の数は減ってきている。3人以上子供がいる家庭のほうが少ないのではないかと思う。ということは、一人当たりの子供に対する教育費は高くなり全体としては過去と変わらないのではないかと思う。

 英会話、スポーツもブームがあり、最近ではヨガスタジオなどが増えてきている。その業界の人々は社会の動向を見ながら流行のものを常に探していかなければいけない。

 教育者の立場や身分や賃金、精神が安定していなければ当然安定した教育は施すことはできない。まして相手は人間であるので、より良いものが世に提供されることを期待したい。

2015年10月6日火曜日

保護者の責任と要求

 学校現場にはしばしば保護者(親)からの要求やクレームが来ることがある。成績が間違っているとか、教師が生徒を殴って傷つけてしまったなんていうことなら文句を言われても仕方が無いんだと思う。

でも、中には理不尽な要求や、家庭教育そのものが成り立っていない場合があり、家庭教育で行うべきものを学校や教師に押し付けて場合がある。

 子供が万引きや喫煙をしたとする。万引きは窃盗であり、何歳になっても許されることの無い犯罪である。

喫煙も、20歳まではしてはいけないことで18,19歳であっても犯罪なのだ。こういったことが中高生に起こると、教師が指導をしなければいけない場合がある。

犯罪なので警察にお世話になることもあるが、こういった非行を学校が知った場合にはなんらかの対応を求められるのが昨今の事情である。

 上記のような犯罪を犯す子供の原因として、家庭での教育が十分ではないことがある。喫煙を許容してしまったり、物をとってもやんちゃでいいなといったような、昔のヤンキーみたいな人がかっこいいと思う文化があったりして、犯罪を親が認めてしまっているのではないかと思う。

こういったことが周りの保護者や社会に伝わると、先生が悪いんだ、全校集会をして二度と無いように周知徹底をしろなどろいわれる。
 
 生徒同士のトラブルや、軽度ないじめが起きた場合でも学校や教員の対応が悪いんだと教員が責められることがある。

 保護者は子供に普通教育を受けさせるだけでなく、”しつけ”をしっかりとすることが大切なのにそれをせずに学校に子供が来て、問題を起こして、その対応でものすごい時間と労力を要する。

 保護者は要求をするだけでなく、自分たちの家庭で行うべき教育をする責任があるのだ。

2015年7月4日土曜日

家族の多様化

日本人の一般的な家庭といえば、夫婦がいてそこに1~3人程度の子供がいるような一般的な家庭を想像するだろう。

昭和の初期の時代には、父・母だけでなく、祖父・祖母も同居する、3世代同居、さらに父か母の兄弟も同居している場合が多かったというふうに聞いている。

昔の一般的な日本らしい家庭の象徴として、サザエさんを持ち出すことが多い。実際には、今ではサザエさんのような家庭は少なく。ほんの数%になっているのではないだろうか。

渋谷区では、性的少数者の結婚を認めるような条例ができた。そのため、同性が家族を形成することも十分に考えられる。

家族は社会の最小単位であり、家庭は子供が最も教育される場所である。

母子家庭では、母親は働きに出ているので。子供が帰ってきてからも面倒を見ることがなかなか難しい。

母親が再婚したため、実際の父親ではない男性と同居する者もいる。

こういった社会の多様化に対応できる地域、社会、教育環境を確保しなければならない。

家庭が多様化するということは、教育も多様化するということだ。経済的に負担のかからない方法で、心豊かに子供が勉強し、成長できる環境を構築したい。